森の話


ちごゆりの君

通り過ぎようとして木の下にうずくまっている人に気付いた。
どうかしたのかとリュックの背に近付いてのぞき込むと、何やら鉛筆を走らせている。

「何か珍しいものでも?」そおっと声をかけると、ゆっくり立ち上がり会釈した。
「これを書いていましてね、昨年はいつ見たのかと思って」人なつっこく話始める。
「今ここに咲いている稚児百合はね、昨年はもっと早い時期に咲きまして、ここの大きな樹から2m位のところにあると、こうして書いておくんですよ」
差し出されたノートには、園内の道と目標になる大きな樹が記され、そのまわりに花の名前がびっしりとメモされている。
それを家に帰ってから、自分で作った野幌原始林内の地図に書き写し、今ではその地図もだんだん書き足して部屋いっぱいに広がってしまうと笑う。

今見てきたばかりの奇妙な”ぎんりょうそうもどき”のある場所に行くと、目を細めゆったりと眺め記録し「ここにあったんですね。良いものを見せていただきました」
珍しい草花に出会う喜びと、見落としそうな花々が今年も咲いてくれたと思うと本当に幸せだと、メガネの奥の目がやさしく語りかけている。
小柄な婦人は手にしていた植物の本を閉じ、なごりおしそうに歩を進めた。
時々こうして苗穂駅からJRとバスに乗り継いで、ここに来て一日過ごすという。

「お元気ですか?
春に、あなたに教えていただいた”ちごゆり”も、はりぎりの大木の側に白い小さな花をつけて楚々として咲きました。
”ぎんりょうそうもどき”は咲く時期が遅かったけれど斜面を登ったあの場所にありましたよ。
雪解けと同時に咲く蘭は残念ながら探せませんでした。
一日、あなたとのんびり過ごすことができたら、教わることが沢山あったのに、あれからお会いすることなく残念です。
珍しい花を見る度に、あなたにお会いできればと思うこの頃です

なぜか、彼女が居間に広げられた地図の上で腰をかがめ、きょう出会った草花の名前を無心に書いている後姿がはっきり見える。

(98'9'3記)


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